お願い:この作品に対する一切の権利は、私、朽葉涼に帰属します。私に許可なく掲載、転載することはご 遠慮ください。また、私は、将来、この作品に対して、私の成長にあわせて、加筆・修正などをする可能 性があります。以上、ご理解のほどよろしくお願いいたします。ご意見、ご感想をお待ちしております。


深 き 蒼
作:朽葉 涼(Mail

 ブラインドの奥で、音もなく回転する換気扇。わずかに差し込む月光が、翼の動きに合わせて、純白のシーツに蒼き陰影をつくりだしている。
 吸いかけのシガレットを、硝子の灰皿にたたきつける。ジュ、という煙草の悲鳴とともに立ち昇った紫煙が、月光に導かれて霧散した。
 何もかも私の腕の中から消滅してしまうような気がして、尭也《タカヤ》を抱く腕に力をこめた。男にしてはあまりにも華奢な身体が、少し震えていた。
「ふふ……固くなってるじゃないか」
 意地の悪い男だ。私は。
「や、やめてくれ、兄さん。はずかしい……」
 尭也は、シーツを胸元まで引き寄せると、私の腕の中でいっそう小さくなった。
「ん?何を勘違いしているんだ?私は"怖いのか"という意味で言ったのだが」
「……」
 尭也は、私から顔をそむけるようにして俯いた。栗色の髪に包まれていた尭也の白いうなじがあらわになった。薄明かりのなか、しばらく見つめていた。首の付け根にかけて、ほんのりと朱に染まってゆくのがわかる。私の嗜虐的本能が目を覚ます。
「大丈夫、すぐに怖くなんかなくなる」
 耳元でささやく。はじかれるようにして、尭也が身体を仰け反らせた。
「うん……。――兄さん?」
 私を見つめる瞳は、少し潤んでいた。
「なんだ?」
 私は尭也の深き泉のような瞳に潜水《ダイヴ》した。
「あたたかい……。兄さんの身体……かあさんのにおいがする……」
 尭也と私の母、真澄《マスミ》が帰らぬ人となってから、今年で7年になる。交通事故であったと聞いている。伝聞であるのは、事故があった当時、私はまだ自分に尭也という父違いの弟がいることを知らなかったからだ。
 運転していた尭也の父、圭一郎《ケイイチロウ》は、奇跡的に命をとりとめた。しかし事故によって、車椅子の生活を余儀なくされた。事故を起こす前は、刑事であった。事故によって退職した。退職後は、わずかばかりの生活保護受け、ときどき依頼される新人警察官の指導員という名目ばかりのアルバイトで糊口を凌いでいたという。
 私と出会うまでの六年間、始終家の中で陰鬱な表情を浮かべている男に、次第に尭也が幻滅していったのも肯ける。尭也が時として浮かべる寂しげな表情の中に、永遠に歳をとることのない真澄の幻影を見て取り、私は嫉妬する。
「……。なあ」
 尭也の中の真澄は、尭也がまだ七歳であった時の印象をとどめている。幼く、臆病で、無知で、ひたすら甘えの対象を求めつづけていた尭也が、唯一安らぎを得られたであろう存在。
「ん?」
 疑うことを知らない眼差しは、罪だ。
「忘れてしまえよ……そのことは」
 尭也の知る真澄は、私の知る真澄ではない。
「だって……そんなこと言ったって……」
 今でもあの日のことを夢にみる。
 安アパートの目張りがされたガラス窓から差し込む夕日が、やけに赤く思えた。涙にかすんだ私の視界の向こうで、父が安酒の瓶を片手に仁王立ちになり、何かを怒鳴り散らしている。私のすぐ側で真澄が腹を抑え、うずくまっていた。力無くしな垂れた長い黒髪が真澄の横顔を覆い隠して、真澄がそのときどんな表情をしていたのかは分からない。ただ、床にぽつりぽつりと涙の粒が落ちる音が、みょうに頭の裏側で響いていたのを記憶している。
 私は父に飛び掛っていったのだと思う。気が付くと、埃くさい見慣れた畳に接吻していた。
 後ろで、金属の擦れ合う音がして、私は顔をあげた。真澄が立っていた。乱れた髪と夕日で赤く染まった表情は、私に少し前に絵本で読んだ鬼ヶ島の住人を連想させた。手には鉄の棒の変わりに、冷たい光を放つ包丁が握られていた。
 ――もう、終わりにしようね。
 それは、私に対しての言葉だったのだろうか。真澄は寂しく微笑むと、父に向かって突進した……。
「なら、忘れさせてやるさ」
 かつての記憶が私を暴力的にしたのかもしれない。私は尭也を背中から抱きかかえると、月の蒼光が届かぬ暗がりへ突き飛ばした。
 前傾姿勢になり、私の前に尭也はすべてをさらけ出す。突然の出来事に、最初は抵抗を示した尭也の細い腕も、私が首根を押さえつけると、すべてを理解したのだろう、抵抗を止めた。
 ――こくっ。
 尭也の喉が鳴った。
 そして――。
 私の凶器が尭也を切り裂いた。
「あ……っ」
「痛いかい?」
 私の凶器が尭也の肺腑をえぐった。蠕動するにつれて、切り裂かれた傷口から血がしたたりおちた。白いシーツが朱色に染ってゆく。次第に高まってゆく上昇感。私の中で何かがはじけた。憑かれたように尭也を攻めたてる。
 血。シーツを染める血。父のよれたシャツの胸元を染めてゆく血。真澄の下腹部から太ももを伝い落ちる血。包丁から滴る血。血に染まった真澄の両手。真澄に両手で掻き寄せられ、真っ赤に染まってゆく私の頬。床一面を覆い尽くした大量の血。血。血。血……。
「うんん」
「泣いているじゃないか」
 そうさ、泣けばいい。喚けばいい。あの日、真澄が流した涙。乾いてささくれた畳に吸い込まれていった哀痛、諦念、絶望、そして、最後に残されたわずかな希望。
 無意識の中で眠りについていた心象が、眼前に再現する。時を超え、血脈に導かれ、尭也と私の肉体を依代として、真澄の悲劇が降臨する。
「うんん、違うんだ……これはね……」
 尭也のぬれた頬が、私の瞳を映して輝いていた。
「……」
 私は気がついた。私が尭也に何を求めていたのかを。
 黒髪のヴェールに包まれて、私が見ることができなかった、真澄の涙にぬれた表情。わずかに震える肩が物語るのは、嗚咽とともに流れ出る悲しみであったのか、 それとも――。
 歓喜、であったのかもしれない。
「うれしいんだ……ほんとだよ……僕……兄さんとひとつになれて。ねえ、兄さん……約束してくれる?」
 幾度、鏡の前で、自分自身の泣きはらした顔を確認しようとしたか知れない。私の表情の中に、涙を流した真澄の表情を求めたか知れない。その度に試みは失敗した。涙で私の視界はかすんでいた。人は、自らの泣き顔を見ることは、決してできない。
「ああ」
 尭也の涙が答えだった……。
「みんなみたいに、僕をひとりぼっちにしないって。ある日突然、いなくなったりしないって。ねえ、約束してくれる」
 真澄の刑期は、情状酌量の余地があるとして、殺人罪としては短いものであった。当時、真澄の事件を担当した圭一郎の必死の弁護も、刑期を短くするのに、少なからず影響したと思われる。
 収監後も、圭一郎はあしげく真澄に逢いに行き、何かと世話を焼いた。孤児となった私を保護施設に入居させる手配をしたのも圭一郎であった。柔和な笑顔を浮かべた、とても気さくで、いい人でしたよ、とても刑事だとは思えないほど、と、施設で私の母がわりとなった人間が私に語ったことがある。が、私は圭一郎に対して、はっきりした記憶がない。肉体労働者であった私の父にくらべて、圭一郎の指が細く、華奢であったことだけは記憶している。
 殺人者である真澄に、圭一郎がどのような想いを抱いていたのかは、今となっては判然としない。真澄が出所すると、圭一郎は真澄と結婚した。刑事である圭一郎が、刑期を終えたとはいえ、殺人者である真澄と結ばれることに周囲の反対があったことは予想できる。圭一郎もまた、真澄に呪縛された一人であったのであろう。
 身辺の整理を終え、圭一郎と真澄が私を迎え入れる準備が整ったときには、すでに真澄の腹の中に尭也がいた。煩悶のすえ、二人は尭也を選択した。尭也のために、という言い訳の裏に、過去に対する怯懦を感じ取ってしまうのは、私の僻みなのだろうか?
「ああ、約束する。私は決して、お前を裏切ったりしない。今日がその誓いの日だ」
 尭也は、もうひとりの真澄と、私という存在を知らずに、十三年間を生きてきた。睡眠薬の多量摂取によって、圭一郎が帰らぬ人となったとき、残された遺書によって、尭也は圭一郎に、二重の意味で裏切られたことを知る。これまで、私という存在を知らされていなかったということと、圭一郎自らの尭也の放棄と。
「そうだよね。僕たち、いつまでもひとつだよね。約束だよ」
 私にとっての真澄を尭也は知らない。知らせる気もない。私と尭也がこれからも同じ道を歩んでゆく限り、それは無意味なことだ。
「ああ……約束だ……んっ!」
 私もまた、尭也を裏切っているのだろうか?圭一郎と同じく、真実を知らせることによって、大切なものを失うのを恐れているのだろうか?尭也が真実を知ったその時こそが、本当の意味で裏切りと呼べる時ではないのか?
 思考が混沌として、迷走する。今は、絶え間なく押し寄せる法悦に身を委ねることにしよう。
「あああっ……!!」
 激しくなる動きに併せて、尭也の肌から真珠のような汗が飛び散る。背筋が緊張し、私を容赦なく締め付ける。逃れることは出来ない。いや、逃しはしない。尭也は私のものだ。私だけのものだ。
「……あぁ……」
 拭うことなど出来ない刻印を記さねばならない。尭也が私のものである証を。
「ああっ!!兄さん、すごいよ……兄さんがあふれてる。……僕の中で……兄さんがひろがって……。ああ
……兄さん……兄さん……にいさん……にぃさん……兄さんっ!!!!」
 ――。
 私は尭也の中に、すべてを放出した。


(終)

脱稿:2000/04/01(土)



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